空海が輸入してメジャーにした“男色”
日本で“男色”のはじまりを確認できるのは『日本書紀』ですが、日本で“男色”をメジャーにしたのは空海と言われています。
空海は若い頃、唐の長安に渡り、その後日本に仏教を広めた人物ですが、それと同時に日本に“男色”の風習も広めたようです。
仏教の世界では、女体は修行している男を惑わす魔物であるとされ、女人禁制の鉄則があります。女性の生理はけがれとされ、肉体関係を持っちゃったら破門ということもあったそうです。しかし、僧でも性欲はたまります。
そこで出てきたのが“稚児”と呼ばれる、12歳〜18歳くらいの少年たちです。彼らは、成人するまで修行しながら僧の身の回りの世話をする役目を持っていました。稚児との肉体関係は身を清めるとされ、僧が自分達のことを正当化していたそうです。(ちなみに、天台宗と真言宗が、“男色”がお盛んらしいです)
当時の社会の中での仏教の影響は強く、僧から貴族、そして武士にまで広まっていったと言われています。
日本で“男色”のはじまりを確認できるのは『日本書紀』ですが、日本で“男色”をメジャーにしたのは空海と言われています。
空海は若い頃、唐の長安に渡り、その後日本に仏教を広めた人物ですが、それと同時に日本に“男色”の風習も広めたようです。
仏教の世界では、女体は修行している男を惑わす魔物であるとされ、女人禁制の鉄則があります。女性の生理はけがれとされ、肉体関係を持っちゃったら破門ということもあったそうです。しかし、僧でも性欲はたまります。
そこで出てきたのが“稚児”と呼ばれる、12歳〜18歳くらいの少年たちです。彼らは、成人するまで修行しながら僧の身の回りの世話をする役目を持っていました。稚児との肉体関係は身を清めるとされ、僧が自分達のことを正当化していたそうです。(ちなみに、天台宗と真言宗が、“男色”がお盛んらしいです)
当時の社会の中での仏教の影響は強く、僧から貴族、そして武士にまで広まっていったと言われています。