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郑永万金刚山—朝鲜画第一人

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郑永万生前号称朝鲜画第一人,其水墨画不仅在朝鲜,在日韩同样拥有相当高的评价,因其对金刚山形象的革新又有“金刚虎”的称号。(98年4月在日本东京举办个人展,日本评论家对其水墨画给出“气韵生动”,中国五代画家荆浩传人的至高评价,评论全文放在楼下)
和吧友分享一副难得的郑永万晚期的巨幅水墨金刚山。
230*92cm
此画的构思甚可玩味。
主体水平流动的云和竖向的群山构成冲突,但前景缓解了这种紧张。以前景为中心,视线跟随水平的流云扇形展开背景中的山峰。
这是种带有叙事的观看:沧海横流,方显英雄本色。
更进一步,利用第二幅图画出的参考线,可以确定郑永万构造了前景的两个焦点,控制了后景光线的角度与山峰的形状,可以说郑永万调动主导了观看者的观看节奏,水平的云,竖直的山,光充当了倾斜的沟通的第三者,至此笔墨全活,其构思意图叹为观止。
用光引导构图,在水墨画里是极为特殊的,郑永万在东方水墨画的技法构图上做出了新的探索,不愧是朝鲜绘画第一人,甚至东方水墨画系谱里也是极为耀眼的存在。
“白生光,黑生韵”,绝非虚言。
此画属画家晚期巨幅佳作,构思立意远在官方画集所选作品之上,亦非日本之行,小幅作品可比。
难得难得。


IP属地:上海来自iPhone客户端1楼2025-03-25 10:03回复
    此画在售,有兴趣的吧友可私信。


    IP属地:上海来自iPhone客户端2楼2025-03-25 10:07
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      在艺术中,特别是美术领域,作品的表现取决于作者的才华,这是不争的事实。然而,在民族性和地域特色成为底蕴并浸透其中的情况下,这些因素进一步提升了作品的价值。4月6日至12日的「郑永万展」(位于银座艺术博物馆)成为艺术界中一则令人耳目一新的消息,让人深切感受到这一点。
      我们从这位邻国的天才画家那里看到了“朝鲜画”的本质。突然间是这样的。对大多数日本人来说,这是一个未知的概念,因此,从常识之外闯进来的美的冲迫力是敏锐的、热烈的,甚至包含着对未见风土的乡愁。这种“令人怀念的东西”到底是什么呢?
      “朝鲜画”是墨守民族传统表现形式的美术名称,相当于我们的“日本画”。但是,在断定是这样的瞬间,就会发现双方的决定性差异。“日本画”是无限多彩的,其题材也多种多样,与西洋画的界限也变得暧昧,多样的程度不断增加。当然,由于加入了实验的因素,也包含了寻找可能性的一面,但明显难以描绘的是属于“日本画”范畴的山水画。郑永万倾注全部心血创作的“朝鲜画”是拒绝与西洋画融合,不受现代主义影响的山水画。给人一种近乎顽固的矜持。
      郑永万是代表朝鲜民主主义人民共和国的国宝。这些“朝鲜画”作者不是被冠以名誉的过去式画家,而是站在第一线为未来艺术树立道路的人,因此向我们提出的问题既沉重又深刻。我在以水墨为基调的作品群前自问自答:“这里流淌着东方美的精髓。”那一刻,我感到了热血。可以说是“令人怀念的东西”带给我们的恩惠。
      对我来说,那里描绘的风景是一个未曾见过的、梦中也未曾出现的世界,但作为作品被形象化的巍峨山峦、冰冷膨胀的雾霭、溪流的水声,成为气韵生动的宇宙,吸收了我的灵魂。寂静的空间里却能听到来自大地底部的叫喊。画家将自己的爱回馈给了他。这难道不是代表自然形成的“天地叙事诗”的神圣的礼仪吗?从单色画面中浮现出香气和色彩也是因为这个原因。
      当我被「金剛山毗盧峰の岩」「金剛山将師槍岩」「霧の流れる万物相」「万物相の奇岩」 「雨の金剛山」「金剛山の燭台岩」的气势所压倒时,我的幻觉之箭突然飞向山水画的泉源。这是十世纪北宋画人荆浩的手迹。以气韵生动为山水画的终极要点的东洋画的逻辑是荆浩所执,在日本雪舟等的画面中也被活用,不过,现在这个传统在近现代化(西方化)的激流中在其本家中国也是奄奄一息的状态。郑永万的“朝鲜画”在东洋的一角忠实地实现了气韵生动的山水画的动感。这个发现怎么会不新鲜呢?风土像神的启示一样要求,而以民族性回应的就是郑永万本人。传统就是严肃的东西。
      为了避免误解,我想补充一句,这位画家并不是执着于过去的遗产的保守人士,而是突破现实主义,向象征的境界打开一扇窗。无限古风与摩登并不矛盾,郑永万在这一点上自豪地与西洋对峙。这一发现自然使我豁然开朗,我感到地球好像有了一点亮色。(美术评论家)


      IP属地:上海来自iPhone客户端3楼2025-03-25 10:09
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        我怎么就看他这幅画的构图那么难受呢
        这个前景和中景挺有气势
        但我觉得不像国画
        我个人感觉画的没啥意境
        说什么气韵生动也不知道咋看出来的


        IP属地:辽宁4楼2025-03-25 14:37
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          日文原文:芸術における表現、とりわけ美術の場 合、その作品は作者の資質によって決定 づけられるのは論を待たないが、民族性 や風土件が底流となって匂い立っている 場合价値を弥が上にも高めるものである。 「鄭永万展」(4月6日〜12日ア-ト・ ミュ-ジアム・ギンザ)はそのことを久 しぶりに鮮やかに感じさせる美術界にお けるニュ—スであった。
          私たちはこの隣国の天才画家によって 「朝鮮画」というものの本質を突きつけ られた。唐突に、である。多くの日本人 にとっては、それは未知の概念であった から、常識の外側から闖入してきた美の 衝迫力は鋭く、熱く、未見の風土への郷 愁すら含んでいた。この「なつかしさの ようなもの」とは、いったい何だろう。
          「朝鮮画」は民族の伝統的表現を墨守した美術の名称であるから、われわれに とっての「日本画」に該当しよう。が、 そうであると断定した瞬間、双方の決定 的な違いに気付くことになる。「日本画」 は限りなく多彩に、その素材も多岐にわ たり、洋画との境界も暧昧になって多弁 の度合いを増しつつある。むろん実験の 要素も加味されているから、可能性の探 求という一面も含んではいるが、明らか に描かれにくくなったのは「日本画」の 範疇にあった山水画である。鄭永万が渾 身の力を振り絞って作画してきた「朝鮮画 」は、洋画との和合を拒否しモダニズ ムに感染しない山水画だ。頑固なほどの 矜恃が感じられる。
          鄭永万は朝鮮民主主義人共和国を代表 する国宝的存在である。名誉を冠せられ た過去形の画家ではなく、あくまでも第一線に立って未来の芸術への道標を打ち 樹てている人のこの「朝鮮画」ゆえに、 われわれに向けて発する問いは重く、か つ深い。私は水墨を基調とする作品群を 前にして、「東洋の美の精髓がここに脈々 と誇らしく生きつづけている」と自問自 答した刹那、熱いものがこみあげてくる のを覚えた。「なつかしさのようなもの」 がもたらした恵み、と言ってもいいだろ う。
          私にとって、 そこに描かれた風景は未 見の、夢にすら出てこない世界であるが、 作品として形象化された巍峨たる山塊や 冷たく膨張した靄や渓流の水音は、 まさ に気韻生動のコスモスとなって魂を吸い 取ってくれた。深閑とした空間なのに大 地の底からの叫びが聞こえる。画家はそ の訴えにおのれの愛を返したのである。これは自然が織り成す造形という「天地 の叙事詩」と代弁した神々しい儀礼のよ うなものではないのか。モノクロ-ムの画面から匂やかな色彩が浮かび上がって くるのはそのためだ。
          「金剛山毗盧峰の岩」や「金剛山将師槍岩」「霧の流れる万物相」「万物相の奇岩」 「雨の金剛山」「金剛山の燭台岩」などか ら壓倒されるように気を感受しているうちに、不意に私の幻想の矢が山水画の 源流」へと飛んだ。十世紀の北宋の画人 荊浩の懐中である。気韵生動を山水画の 究極の要諦とした東洋画のリ—ダ-シッ ブはこの荆浩が執ったもので、日本にも 雪舟などの画面に活用されたが、いまそ の伝統は近代化=西洋化の激流のなかで 死に絶え、本家の中国においても気息奄 奄の態である。鄭永万の「朝鲜画」が気 韵生動の山水画のダイナミズムを、東洋 のー角にあって忠実に実現していたのだ。 この発見がどうして新鮮でないことがあ ろうか。風土が神の啓示のようにそれを要求し、民族性でそれに応 えたのが鄭永万その人であ る。伝統とはかくも厳肅なるものである。
          誤解のないように言い添 えたいが、この画家は過去 からの遺産に執着した保守 の人ではなく、リアリズム を突き抜けたところで象徴の境地に窓を開けようとしているということだ。限りなく古風であることがモダ ンであることと矛盾しないという地点に おいて、鄭永万は誇らしく西洋と対峙し たのである。その発見によって、おのず から私の蒙は啓かれ、地球がほんのりと 明るい色を帯びてきたようでうれしくなっ た。 (美術評論家)


          IP属地:上海来自iPhone客户端5楼2025-03-25 20:53
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            来自iPhone客户端6楼2025-03-26 08:28
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