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IP属地:浙江1楼2021-12-02 23:23回复
    住(じゅう)
    目録
    一、宮殿(離宮を含む)
    1.
    北京:
    故宫 紫禁城
    圆明园 円明園
    颐和园 頤和園
    雍和宫 雍和宮
    2.
    河北:
    承德避暑山庄 避暑山荘
    3.
    陕西:
    华清池 華清宮
    大明宫 大明宮
    4.
    西藏:
    布达拉宫 ポタラ宮
    二、民居
    1.北京四合院 北京の四合院
    2.窑洞 窰洞
    3.宏村(皖南民居) 安徽省南部の民居
    4.蒙古包 ゲル
    5.吊脚楼 吊脚楼
    6.福建土楼 福建省環形土楼
    三、陵墓
    1.
    北京:
    明十三陵 明の十三陵
    2.
    河北:
    清东陵 清東陵
    清西陵 清西陵
    3.
    陕西:
    秦始皇陵与兵马俑 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑
    一、宮殿(離宮を含む)
    北京:
    故宫 紫禁城
    紫禁城(しきんじょう)または故宮(こきゅう)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧皇宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。敷地面積は72haあり、世界最大の木造建築群が建ち並んでいる。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。孔廟・岱廟と並ぶ中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。
    北京の故宮は南北の長さ961m、東西の幅753m、面積72ha、980あまりの建物で構成されている。周囲は幅52m の水堀が囲む。城壁の高さは12mで底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門がある。
    紫禁城の名は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせたものである。
    紫禁城は世界の中心を地上に具現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。
    圆明园 円明園
    円明園(えんめいえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する、清代に築かれた離宮の遺構である。面積は350haに及ぶ。
    1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛(いんしん)に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。
    乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士らが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。
    しかし、1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。ただし、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像がこの時破壊・略奪されたという見解があるが、実際にはこのときは被害を免れ移設されたものである。1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されており、その後首を切断され流出したものと考えられる。この際、円明園から略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されている。1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に中華人民共和国の国の重点保護文化財に指定され、観光資源として数多くの観光客を集めている。
    颐和园 頤和園
    頤和園(いわえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の大部分を占める人工湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
    1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山・玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平県白浮村の神山泉から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。
    明代の1494年(弘治7年)、弘治帝の乳母であった佐聖夫人羅氏により甕山前に円静寺が建立(後に荒廃)された。これ以降、甕山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「甕山」を「金山」と、「甕山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸している。天啓帝の時代になると朝廷内部で権勢を振るった魏忠賢により山園が所有されるにいたった。清朝の初期には宮廷の養馬場として牧草地となっていた。
    頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。これは漢の時代に漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因む。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が概ね完成した。湖の水は農業用水としても利用された。当時の清漪園は居住及び政務施設が乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。
    道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃し、庭園は雑草に覆われるようになった。1860年(咸豊10年)、アロー戦争で清漪園と隣の円明園は戦場となり、円明園の西洋風宮殿が破壊された。
    1875年に即位した光緒帝はわずか3歳で、実権は母の姉にあたる西太后が掌握した。西太后は自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけた。工事は1884年から1895年にかけて行われ、完成後「頤和園」と改称された。
    雍和宫 雍和宮
    雍和宮(ようわきゅう)は、中華人民共和国北京市東城区にある北京最大のチベット仏教の寺院。
    雍和宮は、清の康熙33年(1694年)、皇子時代の雍正帝の居館として建築された。雍正帝が雍親王に封じられていたことから、即位前は「雍王府」と呼ばれていた。康熙50年(1711年)には後の乾隆帝が雍王府内で誕生している。雍正帝即位後の雍正3年(1725年)には宮殿に昇格。
    雍正帝の死後、皇帝の旧居を他人の住居とするのははばかられたこともあり、清が北京を首都と定めて百年目の乾隆9年(1744年)に寄進されて寺院となった。
    河北:
    承德避暑山庄 避暑山荘
    避暑山荘(ひしょさんそう)は、中国河北省承徳市にある、清朝時代の離宮である。中国四大名園の一つでもある。総面積5460平方キロメートルで、周囲の城壁は10キロメートル。
    清の皇帝は瀋陽(当時の奉天)に参拝に行くことがあったが、御幸では承徳に立ち寄ることが多かった。承徳は季候がよく、自然が豊かで景色に優れ、また温泉などもあったことから、康熙帝は1703年にここに離宮を造ることを決定した。雍正帝の治世を経て乾隆帝治世の1741年から大規模な整備がなされ、着工から87年の時を経て1790年に完成した。
    避暑山荘の建築にあたっては、江南地方の名園・名勝を参考にしたと言われている。蘇州の獅子林や寒山寺、杭州の武陵寺六和塔、鎮江の金山亭、嘉興の煙雨楼などを模して作られた建造物があり、内モンゴルや大興安嶺などから松が持ち込まれ移植されている。また園内の文津閣には四庫全書が収蔵されている。
    陕西:
    华清池 華清宮
    華清宮(かせいきゅう)は、中国陝西省の古都、西安市(長安)東北約30km先、唐代に造られた離宮。『長恨歌』において、楊貴妃が湯浴みしたことで知られる。現在の臨潼区、驪山の麓にあり、「華清池」として、観光地となっている。
    華清宮は、後周や隋代に開発され、唐の太宗・李世民が、644年(貞観18年)閻立徳に命じて「温泉宮」を造らせている。740年(開元28年)、唐の玄宗によって、皇子である寿王・李瑁の妻である楊玉環(後の楊貴妃)を女道士として住まわせている。この時、楊貴妃が湯浴みしたことを詠んだ記述が『長恨歌』に残っている。745年、天宝4載、楊玉環が貴妃に冊立されてからは、玄宗は毎年、温泉宮に10月に行幸しており、翌年春に帰るのが定まりとなった。747年、(天宝6載)、玄宗の命令で規模が拡大され、「温泉宮」から「華清宮」に改称し、温泉も「華清池」に改称される。華清宮の周りは、羅城(外郭)に囲まれ、多くの役所や役人が置かれ、たくさんの楼閣が建てられた。748年、(天宝7載)には、老子が驪山頂上にある「朝元閣」に現れたという風説が、華清宮にいた玄宗に伝わり、749年、(天宝8載)以降は、華清宮で朝廷の年賀を行うことも一年ごしに行われた。
    華清宮は、北の正門「津陽門」と南の「昭陽門」を結ぶ線に、前殿と後殿が造られ、東に玄宗が住む「飛霜殿」と、玄宗の使う湯である「九竜殿」、楊貴妃がつかう「妃子湯」(芙蓉湯、蓮花湯)がおかれ、「長生殿」などの建物群が並び立っていた。また、西には、后妃が湯浴みする「長湯」16カ所があり、闘鶏場や校歌台、ポロを行う毬場もあった。


    IP属地:浙江2楼2021-12-02 23:24
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      大明宫 大明宮
      大明宮(たいめいきゅう)は、唐の都・長安の北東にあった宮城。現在の陝西省西安市の北郊外、太華南路に位置する。大明宮は、太宗が父の高祖のため634年に建設を始め、高宗が大規模に増築して663年に太極宮からここへ朝政を移し、以降904年までの240余年にわたり17人の皇帝が起居し政務を執る唐王朝の政治中枢となった。太極宮、興慶宮と共に長安の“三大内”を成す。
      1957年より遺跡の発掘が始まり、現在その跡地は大明宮国家遺跡公園として一般に開放されている。
      大明宮の構成について、長安城の北東、首龍原という丘陵地に造られた敷地は南北2256m、東西1674m、総面積は3.2km2あり、周囲を城壁が囲んでいた。敷地は北東部分が欠け完全な方形ではないが、これは地形の制約によるものである。
      敷地の南北中心軸上に、正殿の含元殿(外朝)、宣政殿(中朝)、紫宸殿(内朝)が建ち、合わせて三大殿と呼んだ。宣政殿から東西に延びる隔壁で敷地は南北に分かれ、南半分は貴族や役人が出入りする宮殿区(前朝、政務地区)、北半分は皇帝のプライベート空間である園林区(内廷、居住地区)になっていた。
      西藏:
      布达拉宫 ポタラ宮
      ポタラ宮(ポタラきゅう)は1642年、チベット政府「ガンデンポタン」の成立後、その本拠地としてチベットの中心地ラサのマルポリの丘の上に十数年をかけて建設された宮殿。
      ポタラ宮は13階建て、基部からの総高117m、全長約400m、建築面積にして1万3000㎡という、単体としては世界でも最大級の建築物。チベット仏教及びチベット在来政権の中心であり、内部に数多くの壁画、霊塔、彫刻、塑像を持つチベット芸術の宝庫でもある。ポタラの名は観音菩薩の住むとされる補陀落のサンスクリット語名「ポータラカ」に由来する。
      標高3,700mに位置し、7世紀半ばにチベットを統一した吐蕃第33代のソンツェン・ガンポがマルポリの丘に築いた宮殿の遺跡をダライ・ラマ5世が増補、拡充するかたちで建設された。5世が自らの政権の権威確立を象徴するために着工したものと言われる。内部の部屋数は2000ともいわれ、ダライ・ラマ14世も自伝の中で、いくつ部屋があるのか分からなかったと記しているが、上層に位置する中核の部分は、政治的空間の白宮と宗教的空間の紅宮と呼ばれる2つの領域に大きく分けることが出来る。聖俗両権を掌握するダライ・ラマ政権の「神聖王権」的性格を具現化したものといえる。
      白宮は、歴代ダライ・ラマの居住と政治的な執務にあてられた領域である。ダライ・ラマが「世俗王」として権力を行使する場といえる。1645年から8年の歳月をかけて、観音堂を中心に東西に建造されていった。寺全体の外壁が白色に塗られ、人目を引くことから、人々に白宮と呼ばれるようになる。
      下層には、集団謁見などの場があり、高層には、建築面積717㎡、38本の大支柱に支えられた白宮最大の建物、東大殿(ツォム・チェンシャル)がある。ここでは歴史上、ダライ・ラマの坐床式や親政大典などがおこなわれ、政治的にも宗教的にもきわめて重要な場所といえる。最上層には、私的な謁見と寝室などの居住の場である「日光殿」が存在する。ここは南に面したガラス張りできわめて採光面積が大きく、朝から晩まで太陽がふりそそぐ。寝室の内部には、貴重な宝石や豪華な調度品、金製のお盆、玉製のお椀など百花繚乱であり、主人の気高い地位を顕示している。寝室には広大なベランダがあり、ラサ市街を望むことができる。
      白宮の西側に隣接して建てられている紅宮は、宗教的な領域である。ここはチベット仏教の総師ダライ・ラマが「祭司王」としての権威を発揮する場であったといえる。白宮と同じく、外壁全体が赤く塗られているため紅宮と呼ばれた。ここは日常的な機能をほとんどもたない聖空間であると同時に、政権にとって最も重要な象徴性を帯びた場所である。 最下層には位置的に紅宮の中心を占める大集会場があり、この上部の吹き抜けを囲む回廊を介して他の各室が並んでいる。この集会室の西側に面して3層吹き抜けで設けられているのが霊塔殿である。ここには多くの仏塔(チョルテン)が納められているが、なかでも一番豪華なのは、1690年に造られた、高さ15mにもおよぶダライ・ラマ5世の霊塔である。霊塔は、3724㎏(霊塔を含む)もの金箔、1500個にも及ぶダイヤモンド、さらには翡翠、瑪瑙など貴重な宝石類で装飾され、塔座には、各種宝器、祭器などが置かれている。この霊廟の奉祀が紅宮の建立の目的といわれる。ダライ・ラマの霊塔殿の横には、面積約700㎡の西大殿(ツォク・チェンヌ)がある。内部には、全部で700枚を超える壁画が描かれており、いずれも当時のチベットの風物や人々の生活をリアルに描いたものである。
      二、民居
      北京四合院 北京の四合院
      四合院(しごういん)は、方形の中庭を囲んで、1棟3室、東西南北4棟を単位とする北方中国伝統的家屋建築である[1]。道路(胡同)に面した建物の壁と接続して高さ2メートル近い煉瓦壁が築かれ、南側に大門(表門)を構える。中国の華北地方以北及び西北地方に多く見られるが、特に北京市街において建てられたものが著名である。
      北京の四合院は、遼代には基本的な構造は形成されており、その後の金、元、明、清代を経て現在のような構成となった。明・清代に建てられた北京の四合院住宅は、約100年前に清朝が崩壊してから近年の再開発で多くが消えるまで、住人が何度も入れ替わった。その過程で、1軒の四合院に中庭を囲んで数世帯が雑居する『大雑院』が登場した。また、清朝の頃までは貴族や裕福な一族が住んでいた大きな邸宅が、中華人民共和国成立後に国家機関の職員の住宅として割り当てられた。
      四合院の「院」とは中庭(院子)のことで、中庭を中央に設け、中庭の中央に「十」文字の通路を作り、その東西南北の突き当たりに、それぞれ一棟ずつ建物を配置する。北側に設けられるのが、「正房」であり、表座敷にあたり、主人夫婦が住む。そのため屋根も他の棟より高い。東側に設けられるのが、「東廂房」である。東のわきの間であり、主人の両親や長男が住む。西側に設けられるのが、「西廂房」である。西のわきの間であり、次男が住む。南側に設けられるのが、「倒坐房」であり、逆向きの間である。コックが住み、厨房や厠が設けられる。
      窑洞 窰洞
      窰洞(ヤオトン)は、中国の陝西省北部、甘粛省東部、山西省中南部、河南省西部の農村に普遍的に見られる住宅形式である。黄土高原の表土である沈泥は、柔らかく、非常に多孔質であるために簡単に掘り抜くことができ、約1千万人の人々が崖や地面に掘った穴を住居として利用している。
      窰洞は穴を掘ることで作られる住宅であり、主に2つのタイプがある。
      洞穴式
      靠崖(カオヤー)式ともいう、山の斜面や崖を横に掘り進めて作るタイプ。洞穴は長方形で、幅は3 - 4メートル、奥行きは10メートル前後である[1]。天井はヴォールト形状で頂点から地面まで3メートルの高さがある。
      地抗式
      地井式、下沈(シャーチェン)式とも呼ばれる。地面を1辺の長さ15メートル、深さ7 - 8メートルほど掘り下げ、各辺に3つの洞穴が横に並ぶ形で四方に横穴を掘り四合院を形成する。地表部の縁には落下防止の欄干があり、竪穴の底とL字型の階段で通じている。天井院とも呼ばれる中庭は、四合院と同様に舗装面と排水溝を設け、草木を植えるなど憩いの場として利用される。中庭は四方位を意識して必ず東西南北と正対させて作られ[4]、一番日当たりの良い北面に年長者の居室、東西に息子達の居室が割り当てられ、南面に畜舎や便所が配置される。
      宏村(皖南民居) 安徽省南部の民居
      宏村(ホンツゥン)は、黟県中心から8kmのところにある。この村は、空から見ると、牛の形をしているのが非常に特徴的だ。例えば村の入口にある2本の大木は、牛の角に見立てられ、民居群は牛の胴体、村をめぐる川は牛の腸に見立てられるといった感じに、宏村にある自然と造形物を全て合わせてみると、見事に牛の形になっている。宏村は、湖の大変美しい村として知られ、特に、湖に映し出された民居の数々や自然は大変美しく、ここでは多くの画人たちが絵画を残してきた。そして現在でも、村を行き交う人々の中に、画材やスケッチブックを持つ人たちが多混じっている。その光景から、宏村は別名「中国画里郷村」とも呼ばれている。宏村には150棟もの古民居があり、ここもまた、古い街並みがそのまま保存されている。
      安徽省には独自の建築史があり、その建築物を「徽派建築」と呼ぶ。徽派建築は、白壁と灰色レンガ造りが大きな特徴だ。この徽派建築の様式は、明・清時代に最も多く用いられた。安徽に住む人々は、古くから洗練された美意識を持っていたのだろう。そして、中国伝統建築の模範として、堂々と世界遺産登録にまで至ったのだ。世界遺産に指定されているのは、西逓村と宏村というほんの一部だが、「安徽省南部の古代集落群」と呼ばれる地域には、実に3,600もの古民居が保存されている。
      蒙古包 ゲル
      ゲルは、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。なだらかな草原地帯に適しており、より乾燥して起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。
      ゲルは円形で、中心の柱(2本)によって支えられた骨組みを持ち、屋根部分には中心から放射状に梁が渡される。これにヒツジの毛でつくったフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとする。壁の外周部分の骨格は木組みで、菱格子に組んであり接合部はピン構造になっているので蛇腹式に折り畳むことができる(「マジックハンド」と呼ばれる玩具の伸縮部分と構造は同じである)。木組みの軸にあたる部分にはラクダの腱が使われる。寒さが厳しいときは、フェルトを二重張りにしたり、オオカミなどの毛皮を張り巡らしたりして防寒とする。逆に、夏の日中暑いときはフェルトの床部分をめくり、簡単に風通しをよくすることができる。
      内部は、直径4 - 6mほどの空間である。ドアがある正面を南向きにして立てられ、入って向かって左手の西側が男性の居住空間、向かって右手の東側が女性の居住空間である。中央にストーブを兼ねた炉を置いて暖をとり、料理をするのに使う。炉は東側を正面にするように置かれており、女性の側から扱いやすいようになっている。向かって正面は最も神聖な場所で、チベット仏教の仏壇が置かれたりする。頂点部は換気や採光に用いられるよう開閉可能な天窓になっており、ストーブの煙突を出すことが可能である。
      ゲル1帳は、おおむね夫婦を中心とする1小家族が住むが、遊牧民たちは一般に2 - 3帳のゲルからなる拡大家族集団(アイル、現代モンゴル語では「仲間」や「村」の意味もある)でまとまって遊牧を行う。拡大家族はそれぞれの戸長が親子、兄弟などからなる場合が多いが、地域によっては戸長の友人関係で血縁関係の薄い数家族が集まる場合もある。


      IP属地:浙江3楼2021-12-02 23:26
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