住(じゅう)
目録
一、宮殿(離宮を含む)
1.
北京:
故宫 紫禁城
圆明园 円明園
颐和园 頤和園
雍和宫 雍和宮
2.
河北:
承德避暑山庄 避暑山荘
3.
陕西:
华清池 華清宮
大明宫 大明宮
4.
西藏:
布达拉宫 ポタラ宮
二、民居
1.北京四合院 北京の四合院
2.窑洞 窰洞
3.宏村(皖南民居) 安徽省南部の民居
4.蒙古包 ゲル
5.吊脚楼 吊脚楼
6.福建土楼 福建省環形土楼
三、陵墓
1.
北京:
明十三陵 明の十三陵
2.
河北:
清东陵 清東陵
清西陵 清西陵
3.
陕西:
秦始皇陵与兵马俑 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑
一、宮殿(離宮を含む)
北京:
故宫 紫禁城
紫禁城(しきんじょう)または故宮(こきゅう)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧皇宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。敷地面積は72haあり、世界最大の木造建築群が建ち並んでいる。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。孔廟・岱廟と並ぶ中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。
北京の故宮は南北の長さ961m、東西の幅753m、面積72ha、980あまりの建物で構成されている。周囲は幅52m の水堀が囲む。城壁の高さは12mで底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門がある。
紫禁城の名は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせたものである。
紫禁城は世界の中心を地上に具現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。
圆明园 円明園
円明園(えんめいえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する、清代に築かれた離宮の遺構である。面積は350haに及ぶ。
1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛(いんしん)に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。
乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士らが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。
しかし、1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。ただし、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像がこの時破壊・略奪されたという見解があるが、実際にはこのときは被害を免れ移設されたものである。1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されており、その後首を切断され流出したものと考えられる。この際、円明園から略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されている。1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に中華人民共和国の国の重点保護文化財に指定され、観光資源として数多くの観光客を集めている。
颐和园 頤和園
頤和園(いわえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の大部分を占める人工湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山・玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平県白浮村の神山泉から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。
明代の1494年(弘治7年)、弘治帝の乳母であった佐聖夫人羅氏により甕山前に円静寺が建立(後に荒廃)された。これ以降、甕山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「甕山」を「金山」と、「甕山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸している。天啓帝の時代になると朝廷内部で権勢を振るった魏忠賢により山園が所有されるにいたった。清朝の初期には宮廷の養馬場として牧草地となっていた。
頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。これは漢の時代に漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因む。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が概ね完成した。湖の水は農業用水としても利用された。当時の清漪園は居住及び政務施設が乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。
道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃し、庭園は雑草に覆われるようになった。1860年(咸豊10年)、アロー戦争で清漪園と隣の円明園は戦場となり、円明園の西洋風宮殿が破壊された。
1875年に即位した光緒帝はわずか3歳で、実権は母の姉にあたる西太后が掌握した。西太后は自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけた。工事は1884年から1895年にかけて行われ、完成後「頤和園」と改称された。
雍和宫 雍和宮
雍和宮(ようわきゅう)は、中華人民共和国北京市東城区にある北京最大のチベット仏教の寺院。
雍和宮は、清の康熙33年(1694年)、皇子時代の雍正帝の居館として建築された。雍正帝が雍親王に封じられていたことから、即位前は「雍王府」と呼ばれていた。康熙50年(1711年)には後の乾隆帝が雍王府内で誕生している。雍正帝即位後の雍正3年(1725年)には宮殿に昇格。
雍正帝の死後、皇帝の旧居を他人の住居とするのははばかられたこともあり、清が北京を首都と定めて百年目の乾隆9年(1744年)に寄進されて寺院となった。
河北:
承德避暑山庄 避暑山荘
避暑山荘(ひしょさんそう)は、中国河北省承徳市にある、清朝時代の離宮である。中国四大名園の一つでもある。総面積5460平方キロメートルで、周囲の城壁は10キロメートル。
清の皇帝は瀋陽(当時の奉天)に参拝に行くことがあったが、御幸では承徳に立ち寄ることが多かった。承徳は季候がよく、自然が豊かで景色に優れ、また温泉などもあったことから、康熙帝は1703年にここに離宮を造ることを決定した。雍正帝の治世を経て乾隆帝治世の1741年から大規模な整備がなされ、着工から87年の時を経て1790年に完成した。
避暑山荘の建築にあたっては、江南地方の名園・名勝を参考にしたと言われている。蘇州の獅子林や寒山寺、杭州の武陵寺六和塔、鎮江の金山亭、嘉興の煙雨楼などを模して作られた建造物があり、内モンゴルや大興安嶺などから松が持ち込まれ移植されている。また園内の文津閣には四庫全書が収蔵されている。
陕西:
华清池 華清宮
華清宮(かせいきゅう)は、中国陝西省の古都、西安市(長安)東北約30km先、唐代に造られた離宮。『長恨歌』において、楊貴妃が湯浴みしたことで知られる。現在の臨潼区、驪山の麓にあり、「華清池」として、観光地となっている。
華清宮は、後周や隋代に開発され、唐の太宗・李世民が、644年(貞観18年)閻立徳に命じて「温泉宮」を造らせている。740年(開元28年)、唐の玄宗によって、皇子である寿王・李瑁の妻である楊玉環(後の楊貴妃)を女道士として住まわせている。この時、楊貴妃が湯浴みしたことを詠んだ記述が『長恨歌』に残っている。745年、天宝4載、楊玉環が貴妃に冊立されてからは、玄宗は毎年、温泉宮に10月に行幸しており、翌年春に帰るのが定まりとなった。747年、(天宝6載)、玄宗の命令で規模が拡大され、「温泉宮」から「華清宮」に改称し、温泉も「華清池」に改称される。華清宮の周りは、羅城(外郭)に囲まれ、多くの役所や役人が置かれ、たくさんの楼閣が建てられた。748年、(天宝7載)には、老子が驪山頂上にある「朝元閣」に現れたという風説が、華清宮にいた玄宗に伝わり、749年、(天宝8載)以降は、華清宮で朝廷の年賀を行うことも一年ごしに行われた。
華清宮は、北の正門「津陽門」と南の「昭陽門」を結ぶ線に、前殿と後殿が造られ、東に玄宗が住む「飛霜殿」と、玄宗の使う湯である「九竜殿」、楊貴妃がつかう「妃子湯」(芙蓉湯、蓮花湯)がおかれ、「長生殿」などの建物群が並び立っていた。また、西には、后妃が湯浴みする「長湯」16カ所があり、闘鶏場や校歌台、ポロを行う毬場もあった。
目録
一、宮殿(離宮を含む)
1.
北京:
故宫 紫禁城
圆明园 円明園
颐和园 頤和園
雍和宫 雍和宮
2.
河北:
承德避暑山庄 避暑山荘
3.
陕西:
华清池 華清宮
大明宫 大明宮
4.
西藏:
布达拉宫 ポタラ宮
二、民居
1.北京四合院 北京の四合院
2.窑洞 窰洞
3.宏村(皖南民居) 安徽省南部の民居
4.蒙古包 ゲル
5.吊脚楼 吊脚楼
6.福建土楼 福建省環形土楼
三、陵墓
1.
北京:
明十三陵 明の十三陵
2.
河北:
清东陵 清東陵
清西陵 清西陵
3.
陕西:
秦始皇陵与兵马俑 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑
一、宮殿(離宮を含む)
北京:
故宫 紫禁城
紫禁城(しきんじょう)または故宮(こきゅう)は、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧皇宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコの世界遺産(文化遺産)となっている。敷地面積は72haあり、世界最大の木造建築群が建ち並んでいる。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は博物館(故宮博物院)になっている。孔廟・岱廟と並ぶ中国三大宮廷建築の一つと呼ばれている。
北京の故宮は南北の長さ961m、東西の幅753m、面積72ha、980あまりの建物で構成されている。周囲は幅52m の水堀が囲む。城壁の高さは12mで底厚10m、頂厚は6m から7m。南に午門、東に東華門、西に西華門、北に神武門がある。
紫禁城の名は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを紫微垣と呼んだのに由来する「紫宮」、及び「天帝の命を受けて世界秩序の維持に責任を持つ皇帝(天子)」の住居たる「禁城(庶民などが自由に入るのを禁止された城)」の二語を合わせたものである。
紫禁城は世界の中心を地上に具現した領域であり、天帝に代って地上を治める皇帝の住む宮殿として建設された。そのため「天子は南面す」の言葉通り、北に皇帝の宮殿が置かれている。
圆明园 円明園
円明園(えんめいえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する、清代に築かれた離宮の遺構である。面積は350haに及ぶ。
1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤禛(いんしん)に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。
乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士らが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物・西洋楼が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。
しかし、1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。ただし、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像がこの時破壊・略奪されたという見解があるが、実際にはこのときは被害を免れ移設されたものである。1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されており、その後首を切断され流出したものと考えられる。この際、円明園から略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されている。1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に中華人民共和国の国の重点保護文化財に指定され、観光資源として数多くの観光客を集めている。
颐和园 頤和園
頤和園(いわえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の大部分を占める人工湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山・玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平県白浮村の神山泉から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。
明代の1494年(弘治7年)、弘治帝の乳母であった佐聖夫人羅氏により甕山前に円静寺が建立(後に荒廃)された。これ以降、甕山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「甕山」を「金山」と、「甕山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸している。天啓帝の時代になると朝廷内部で権勢を振るった魏忠賢により山園が所有されるにいたった。清朝の初期には宮廷の養馬場として牧草地となっていた。
頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。これは漢の時代に漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因む。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が概ね完成した。湖の水は農業用水としても利用された。当時の清漪園は居住及び政務施設が乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。
道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃し、庭園は雑草に覆われるようになった。1860年(咸豊10年)、アロー戦争で清漪園と隣の円明園は戦場となり、円明園の西洋風宮殿が破壊された。
1875年に即位した光緒帝はわずか3歳で、実権は母の姉にあたる西太后が掌握した。西太后は自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけた。工事は1884年から1895年にかけて行われ、完成後「頤和園」と改称された。
雍和宫 雍和宮
雍和宮(ようわきゅう)は、中華人民共和国北京市東城区にある北京最大のチベット仏教の寺院。
雍和宮は、清の康熙33年(1694年)、皇子時代の雍正帝の居館として建築された。雍正帝が雍親王に封じられていたことから、即位前は「雍王府」と呼ばれていた。康熙50年(1711年)には後の乾隆帝が雍王府内で誕生している。雍正帝即位後の雍正3年(1725年)には宮殿に昇格。
雍正帝の死後、皇帝の旧居を他人の住居とするのははばかられたこともあり、清が北京を首都と定めて百年目の乾隆9年(1744年)に寄進されて寺院となった。
河北:
承德避暑山庄 避暑山荘
避暑山荘(ひしょさんそう)は、中国河北省承徳市にある、清朝時代の離宮である。中国四大名園の一つでもある。総面積5460平方キロメートルで、周囲の城壁は10キロメートル。
清の皇帝は瀋陽(当時の奉天)に参拝に行くことがあったが、御幸では承徳に立ち寄ることが多かった。承徳は季候がよく、自然が豊かで景色に優れ、また温泉などもあったことから、康熙帝は1703年にここに離宮を造ることを決定した。雍正帝の治世を経て乾隆帝治世の1741年から大規模な整備がなされ、着工から87年の時を経て1790年に完成した。
避暑山荘の建築にあたっては、江南地方の名園・名勝を参考にしたと言われている。蘇州の獅子林や寒山寺、杭州の武陵寺六和塔、鎮江の金山亭、嘉興の煙雨楼などを模して作られた建造物があり、内モンゴルや大興安嶺などから松が持ち込まれ移植されている。また園内の文津閣には四庫全書が収蔵されている。
陕西:
华清池 華清宮
華清宮(かせいきゅう)は、中国陝西省の古都、西安市(長安)東北約30km先、唐代に造られた離宮。『長恨歌』において、楊貴妃が湯浴みしたことで知られる。現在の臨潼区、驪山の麓にあり、「華清池」として、観光地となっている。
華清宮は、後周や隋代に開発され、唐の太宗・李世民が、644年(貞観18年)閻立徳に命じて「温泉宮」を造らせている。740年(開元28年)、唐の玄宗によって、皇子である寿王・李瑁の妻である楊玉環(後の楊貴妃)を女道士として住まわせている。この時、楊貴妃が湯浴みしたことを詠んだ記述が『長恨歌』に残っている。745年、天宝4載、楊玉環が貴妃に冊立されてからは、玄宗は毎年、温泉宮に10月に行幸しており、翌年春に帰るのが定まりとなった。747年、(天宝6載)、玄宗の命令で規模が拡大され、「温泉宮」から「華清宮」に改称し、温泉も「華清池」に改称される。華清宮の周りは、羅城(外郭)に囲まれ、多くの役所や役人が置かれ、たくさんの楼閣が建てられた。748年、(天宝7載)には、老子が驪山頂上にある「朝元閣」に現れたという風説が、華清宮にいた玄宗に伝わり、749年、(天宝8載)以降は、華清宮で朝廷の年賀を行うことも一年ごしに行われた。
華清宮は、北の正門「津陽門」と南の「昭陽門」を結ぶ線に、前殿と後殿が造られ、東に玄宗が住む「飛霜殿」と、玄宗の使う湯である「九竜殿」、楊貴妃がつかう「妃子湯」(芙蓉湯、蓮花湯)がおかれ、「長生殿」などの建物群が並び立っていた。また、西には、后妃が湯浴みする「長湯」16カ所があり、闘鶏場や校歌台、ポロを行う毬場もあった。